夜中の感傷
夜中の感傷というか。
無性に、寂しいような哀しいような、よくわからない切ない気持ちを書き残しておきたくなることがある。
ブログなんてよく知らないのだが、丁度人様のブログを読んでいたので開設してみることにした。
さっきから頭の中に浮かび続ける文章。
地域の情報誌、投稿文かなにかのコーナーにあったほんのひと枠。
淡々とした表現と短い文章の中に、その方の子供が亡くなる前に見た桜のことが書かれていた。
静かな美しささえ感じる描写に、胸が締め付けられながら何度も何度も読み返した。
それをふと、つい先ほど思い出して、もうそこから心が動けずにいる。
病院から一時帰宅の帰り道、
透き通るほど白く澄んで見えた子供の頬、
車の窓から共に見た桜、
その年の夏の夕方、亡くなったということ。
内容はこんな感じだったと思う。
何度も読み返したのに、覚えていないものだとも思う。
静かに連なった、けれどその瞬間を今でもはっきりと思い返せるのだろうなと感じる文章に、お子さんが亡くなってからの年月を感じた。
淡々とした中にある悲しみや静謐さに衝撃を受け痛みを感じたのに、はっきりと文章を思い出せないのが遣る瀬無くて、つい先ほどまで躍起になって元の記事を探していた。
ネットの波の中には見つけられなかった。私の探し方が悪い可能性は大いにあるが。
投稿された方にとっては過ぎ去った時間なのだと感じる文章なのに(もちろんその痛みや悲しみは消えはしない物だと思う)
読み返すたびに、頭の中に桜並木を行く車の情景が浮かんだ。
桜並木、
車のシート、
隣に座る小さな頭、
子供らしい頬は白く白く、
その頬越しに窓から見た桜はどんなに美しく悲しく見えただろう。
来年の桜の事を思っただろうか。
一度読んで、忘れられない文章だと思った。実際は少しあやふやで間違っているところもあるかもしれないが、こうやってきっとこの先何かの折にかな文章の事を、この情景を思い出すのだろうなと思う。
悪い意味でなく、文章や物語を読んで傷を負う事がある。
私にとって、この子との別れを書いた静かな文章は痛みを感じさせる。
それなのに何度でも思い出してしまうのは何故なんだろう。
文章の静かな美しさに圧倒され続けているのかもしれない。
自分の事ながらよくわからない、よくわからないがどうしようもない感傷のような、今の気持ちを残しておこうと思う。
同じ記事を読んだ事がある方がいるなら正確なものを教えていただけたら嬉しい。
またきっと桜の頃には、この情景を思って思考が止まる夜が来るのだろうなと感じている。